中国散歩 −1−
小 倉 治 夫
1984(昭和59)年11月3日から2000(平成12)年3月31日の間、実に15年5ヶ月続いた、中華人民共和国の瀋陽薬学院と北里大学薬学部との交流協定が破棄された。このことは、北里大学にとって大変な損失であると考える。筆者は第3回訪中団のメンバーに加わったことを契機に、定年退職後にも1993(平成5)年5月から6回、学部の援助を頼らず、自費(最終章参照)で訪中し、瀋陽薬学院客座教授として大学院学生に講義を行ってきた。その間の見聞を書き留めて、中国の現状を知る一助ともなれば幸いである。
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1984年-交流協定調印式の写真(瀋陽薬学院パンフレットから) |
筆者を中国へ向かわせた根底には、日本国が明治以来、犯した中国への限りない暴力と搾取に対しての謝罪感がある。軍閥が行ったこととはいえ、日本国の指導者が天皇の名の下に行なった行為であることに間違いない。日本を誤まった方向へ持っていった指導者たちを祀る靖国神社へは、レイテ島で散った叔父がいるとは言え、参拝する気持ちには到底なれない。国民を奈落の底に落した「東条」が、戦犯として逮捕されるとき、自ら定めて、兵に強要した「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」の規規律を守ることすら出来なかったとは情けない。その男が、靖国の神様だ。今でも、戦時中の東条の偉そうな顔が目の前にちらつく。
筆者は福井県の武生中学校に在籍していたが、中学時代には「修身」という学課があって、校長先生が教えていた。「予科練へ行け。皇国の盾となれ」との講義が続き、期末の試験に「何故、予科練へ行くか」という試験問題が出た。筆者は体力に劣っていたので、「予科練へ行かなくても、国に尽くすことは出来る」という答案を書いたところ、「丙」(当時の学業成績評価は甲乙丙丁)を頂戴した。また、若い配属将校がいて、今思えば、相当に厳しい訓練が教科として続いた。手榴弾投げでは、「それでは味方が死んでしまう」と言って叱られ、日本刀で殴られたり、「伏せ撃ちの体勢が悪い」と言っては、銃把で頭を打ち据えられ、頭の前と後ろにこぶを作ったりした。
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武生の東を流れる日野川で訓練中に(筆者は前列右から2人目) |
武生中学校庭で閲兵訓練(筆者は最後尾で写真に写っていない) |
中学4年生になると、戦況がだんだんきびしくなって、艦載機「彗星」を製造する名古屋の愛知航空に学徒動員で派遣されたが、樫の木で作った「軍人精神注入棒」(墨痕あざやかにそう書かれていた)で海軍下士官に殴られながら、作業した学徒動員時代の過去がぬぐい去れない。頭のこぶが今でもその当時を記憶している。同級生の中で予科練へ数名が進学したが、幸い1名の戦死者もなく終戦を迎えることが出来たのは幸いであった。
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名古屋時代の筆者(胸に愛知航空のマークをつけている) |
若者を死に追いやった知覧で涙するとき、第一番に悔やまれるのが日本国を無惨な方向へ導いた責任者たちの存在である。現在の政情は、開戦前の状況に似ている。多くの戦争反対論者が獄死したことはよく知られたことである。大政翼賛へ議会を誘導した軍閥が世論を抑圧し、政権を主導して日本を戦争に駆り立てた、当時の政府の責任は、一体、誰がとったのであろうか。もちろん、現在の我が国の首相のように「靖国参拝は当然」と考える人々も多いが、首相の靖国参拝の持論を聞いていると、児戯に類する印象を禁じ得ず、馬鹿馬鹿しさが先に立って涙も出ない。このような人物に率いられる日本は、世界の笑い者になるのが落ちではないかと心痛に耐えない。悪逆非道を犯した日本国の責任の重さを、痛感する人間がいることも知って貰いたい。
瀋陽概観
ところで、瀋陽は広大な中国の何処に位置するのか。どのような街か。一言でいえば、瀋陽は中国東北部の遼寧省の首都である。遼寧省といえば、かつて日本が中国に創った満州帝国の一部で、満州族が中国の明を制覇して、清朝を建てた発祥の地でもある。東北部は北から黒竜江省、吉林省、遼寧省と3省からなり、遼寧省の省都−瀋陽−は清朝が北京へ遷都する1644年まで、国都としたところである。1657年、奉天と改称して、満州国時代もこの名称を用いた。中高年の人々は「奉天」の方がなじみ深い。
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地図はいずれも「山口修、鈴木啓造、五味充子編“中国の歴史散歩”」 から |
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瀋陽薬科大学の歴史
瀋陽薬科大学は源を1931年、紅軍軍醫學校に求めることが出来る。その発展の様子は“沈陽薬科大学パンフレット”に詳しい。ここには同誌から校址変遷図とその年代表を引用する。終戦後、1940年、中国医科大学は延安に開設され、校址変遷図から分かるように各地を変遷して1956年、瀋陽に落ち着いた。この地が戦前、日本が造った満州医科大学の旧址である。
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瀋陽薬科大学の校址変遷図(いずれも大学のパンフレットから)
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瀋陽薬科大学発展の歴史は、大学が発行するパンフレット(上図)に詳しい。1931年11月紅軍軍医学校としての瑞金にその源流があるが、その後、校名を変えながら各地を変転して、1949年、中国医科大学薬学院となり、瀋陽に大学としての体裁をととのえた。同書には記載がないが、日本が満州国を建国して、中国の東北地方を牛耳っていた頃に創った「満州医科大学」の後身が中国医科大学である。満州医科大学について言えば、南満州鉄道会社(いわゆる満鉄)が明治44年に奉天に創設した「南満州医学堂」が大正11年に昇格したものである。その当時、日本が建設して使用していた校舎が、今も実際に使われている。
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中国医科大学と第一病院(満州医科大学時代の建物が中心にある) (2005.10.21早朝撮影:夜は建物に沿って赤い電灯がついて美しい) |
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中国医科大学がある中山広場 (2005.10.20遼寧賓館前から撮影:広場の中央に毛沢東像がそびえる) |
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中国医科大学と第一病院周辺地図 |
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中国医科大学は、現在、中国でも有数の医科大学となっている。市の中心地、中山広場に面した遼寧賓館— 旧満鉄宿舎(奉天大和ホテル)−の斜め前、その広場に接した位置に、日本国が建てた古い建物を中心に校舎と第一病院(写真)がある。大分離れるが、文化路に面した大通りに立派な第二病院が新築されていて、ここには、近代設備が整い、ヘリポートもあるとのことである。
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遼寧賓館(2005.10.21) |
遼寧賓館玄関横には旧大和ホテル旧跡の記載がある(2005.10.20) |
瀋陽薬学院は1941年、紅軍軍医学校が昇格した中国医科大学の薬科として出発した。1942年、延安に薬科学校として独立し、1949年、中国医科大学薬学院となり、ついで1952年、独立して東北薬学院となり、1956年、瀋陽薬学院となった。1994年、学院を増設して総合大学に昇格したものである。東北薬学院・瀋陽薬学院がスタートした頃は意欲に燃えた人達が中心となって、新しい国造りに邁進したもののようであるが、その後の文化革命によって腰を折られ、優秀な若者達は農村や工場での強制労働へと押しやられた。それでも若者達は、教科書を隠し持って労働の合間を学習に当てたという。しかし、大学での系統的な学習が必要な青年期を、強制労働に明け暮れて過ごさねばならなかったマイナスは大きい。また、その頃の教員であった親日派や知識人は、いわゆる反省を強いられ、研究どころではなかったというが、詳しく当時を語ってくれる人はいない。
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瀋陽薬学院当時の校門(中央に満州医科大学薬学院時代の校舎)薬学院のパンフレットから(校門の看板の文字は、郭沫若筆) |
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瀋陽薬科大学校門(大学のパンフレットから) |
1994(平成6)年5月、瀋陽薬学院は瀋陽薬科大学に昇格して、大学としての体裁を整えていたが、中国科学院院士(日本の学士院会員)−姚新生教授が瀋陽薬科大学校長に就任してからは、積極的に大学の拡充と整備に努力したので、最近では見違える程に発展している。
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瀋陽薬学院靳瑞征校長、姚新生副校長、李募春外事処長 1989(平成元)年5月15日来訪 (瀋陽薬学院パンフレットから) |
瀋陽薬学院招待所、筆者の居室へひょっこり現れた姚新生教授 1998(平成10)年9月19日 |
北里大学薬学部との関係
オール北里としては、はじめに大村 智北里研究所所長(現)が交渉役を担った。幾多の紆余曲折を経て、北里大学薬学部は1984年11月3日に瀋陽薬学院と姉妹校の協定を締結し、年間在籍者4名を限度として大学院学生を受け入れることとなった。調印式の写真が一番始めに截せてある。
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瀋陽薬科大学との主な姉妹校 (最初に北里大学の名がある:大学パンフレットから) |
瀋陽薬学院としては、最初の姉妹校交流協定であった。(一覧表参照)そこで、薬学部は瀋陽薬学院の現状を調査する目的で何回か教職員を派遣した。
第1回 1985(昭和60)年10月19〜24日
小林凡郎、野沢 喬、中川 彰、大村 智、田中芳武
第2回 1986(昭和61)年10月5日〜16日
恩田政行、木下俊夫、森口郁生、大岩留意子
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瀋陽薬学院本館前で(1987.10.7) |
第3回目の訪問(1987年10月6日〜11日)は、メンバーとして、小林凡郎(団長)、伊藤 宏、井村伸正、木下俊夫,大石幸子,小倉治夫,高橋 洋が加わった。上に全員の写真(伊藤 宏学長をのぞく)を掲げる。そのときには、既に恩田政行教授が瀋陽薬学院に着任して研究室をもっていたので、恩田教授の招待もあり、盛大に飲み、語り、歌い合って、交流の場は大いに盛り上がり、夜の更けるのも忘れるほどであった。
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招待所の恩田教授室で (1993年から小倉が使用した思い出深い部屋) 前列:右から小林、恩田、李 銑、大石 後列:木下、小倉、高橋 |
このようにして、相互協定は軌道に乗り、大学院学生の受け入れも順調に進み、研究員も何人か留学して、学位を取得してそれぞれ活躍している。
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瀋陽薬科大学周辺地図 |
この章を閉じるにあたり、中国の旅は私費であることを、もう一度強調しておきたい。何故かというと、当時、教授会のメンバーの一人から「たとえ、往復の旅費が自弁でも、国内の旅行は学部の恩恵に浴している」と言われたからである。なんと批判されようと構わないが、内心、認識の程度に愕然とした覚えがある。そんなこともあって、ここに、たまたま書斎の資料の中から見つけた、1993年(平成5年)に中国へ旅したときの中国内費用17万8000円が計上されている請求書を截せておく。

(2006.1.20記)