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      中国散歩 −4—

                         

         瀋陽名所概略図

皇姑屯(ほうこうとん)

  張学良の父・張作霖(ちょうさくりん)は1875年の生まれで、馬賊の頭目から立身して、日露戦争のときは、ロシアのスパイとして活躍した。日本軍に捕えられ、危うく処刑されるところを、児玉源太郎に救われて日本軍のスパイとなる。その後、清朝に帰順して東北の部隊長となり、北洋軍をも吸収して、東北の軍を率い奉天軍閥の長老となった。1911年、辛亥革命(しんがいかくめい)が起こり、翌1912年清朝が滅んで、中華民国の誕生となる。1916年、袁世凱(えんせいがい)が失脚すると、たくみに、奉天省(現遼寧省)を支配し、1919年には黒龍江省、吉林省も勢力下においた。1926年、北京で、大元帥となり、中華民国の主権者を宣言した。しかし、1928年(筆者の生まれた年)蒋介石は中華民国の体制を立て直して作霖攻撃したから、防戦やむ無く、内戦はますます激しくなった。

  この年の6月4日、作霖は北京から奉天(現瀋陽)へ再起を胸に逃走する。豈図らんや、関東軍は利用価値がなくなった張作霖を暗殺することを計画し、河本大作の指揮の下に列車ごと爆殺するのである。皇姑屯駅の近くであった。この事件が満州事変の発端であろう。

1:皇姑屯駅 (1995.9.23 撮影)

2:皇姑屯駅ホームの先方にある陸橋あたりが爆殺現場といわれる

  この事件が起って、田中義一内閣は解散した。その後、張作霖の後を継いだ張学良も、日本軍の傀儡(かいらい)となることを拒んで国民政府と結び、日本から満鉄の利権を剥奪(はくだつ)しようとしたのである(後述:張氏帥府)。日本軍はそれに対し、張学良を追放して、満州事変への突入となった。後に言う九・一八事変柳条湖(りゅうじょうこ)事件)である。

 

九・一八事変博物館

  北陵の近くに九・一八事変博物館がある。中国への侵略を開始するきっかけを得るために、日本軍は昭和6(1931)年、柳条湖(りゅうじょうこ)付近(博物館前の鉄道分岐点)の南満州鉄道線路を爆破し、いわんやその責任を中国側になすり付けたのである。日本軍がこの事件を誇示するために建てた「炸弾碑(さくだんひ)」が、現在、博物館の入り口に横倒しになって置かれている。博物館の建物は巨大なカレンダー型の造りで、中国としては、屈辱の9月18日の暦がデザインされた3階建てとなっていて、抗日戦争時代の写真や遺品類がここに展示されている。1995年には建物の向い側に、別棟が開館して、ここに、生々しい蝋人形が置かれ、旧日本軍が住民を虐殺している様子が示されている。

3:九・一八博物館

1995.9.23撮影)

41995.9に開館した日本軍の罪状を訴える蝋人形展示館(半地下式)筆者が訪れた時、小学生の団体が続々つめかけて、室内は満員であった

 

張氏帥府(ちょうしすいふ)

  張作霖と長男張学良は旧城内の張氏帥府に住み、政務をとっていた。張作霖が皇姑屯で爆殺されたとき運び込まれたのも、ここである。張氏帥府は1914年に造られた中国では伝統的な建築の三進四合院(さんしんしごういん)で、4棟の建物の中央に中庭がある【写真5。旧城内、故宮の南に位置する敷地約3万mの大邸宅である。一画に大青楼と呼ばれるローマ様式の西洋館(1918〜22年建築)があって、事務室、応接室、宴会場などが備わっている。張学良はこの建物の一室(老虎庁)で1929年1月、親日派の楊宇霆(よううてい)常蔭槐(じょういんかい)を処刑して、日本から満鉄の利権を剥奪しようとした。

5:張氏帥府:四合院中庭(後方に大青楼がみえる)

6:張氏帥府:大青楼

1995.9.26撮影)

  このことが契機となり、日本軍は張学良を追放して満州国を建国するに至る。蒋介石は、中国共産党を倒すことを第一目標としたが、張学良は共産党と結んで抗日に徹すべきであると考え、1936年楊虎城とともに、共産党討伐軍を督戦するため南京から西安を訪れていた蒋介石を12月12日の早朝5時、宿泊先の華清宮(かせいきゅう)五間庁(ごけんちょう)に襲撃した。蒋介石は銃声に驚いて裸のまま窓を乗り越えて裏山へ逃げ、8時ころ裏山の大きな岩陰に隠れている所を張学良の衛兵に発見され,西安の招待所に幽閉された。世に西安事件と呼ばれ、中国の近代史に1ページを残すものである。

  張学良楊虎城は、延安の毛沢東首席に電報を打って、代表団の派遣を要請し,毛沢東はそれに応えて周恩来を派遣した。周恩来と蒋介石の交渉の結果,「第二次国共合作」が実現したのである。五間庁の窓には今も弾痕が残り、割れたガラス窓からは蒋介石が寝ていたベッドや、使っていた机が見える。隠れていた裏山の大岩には石造りの小亭がつくられ、「兵諫亭」と名付けられている。

             西安名所概略図

  その後,蒋介石は台湾へと逃れ,1949年の中華人民共和国の誕生につながるのである。張学良は、西安事件で軍法会議に付され、以後、50年の長きにわたって軟禁生活を強いられた。蒋介石は、よほど張学良が怖かったようで、台湾にまで連行したのである。蒋介石の死後(1975)、張学良はようやく行動の自由が認められるようになり、1991年に釈放されてからはハワイに住んだ。2001年、終生、日本を恨み、満州国傀儡政権をののしりながら100才で世を去った。

 

周恩来少年読書旧址

  張学良が共産党と手を組んで西安事件をおこし、蒋介石に「第二次国共合作」を実現させたことが近代中国の幕開けになったが、もう一方の立役者である周恩来も瀋陽で育った。旧瀋陽城の東に道路を挟んで、周恩来旧址がある。

7:周恩来の通った小学校(今では博物館になっていて、現在の小学校はこの建物の後にある)

8:周恩来像前で(筆者)

9:周恩来の通った小学校正面玄関

10:周恩来が座っていた机に座る筆者

1995.9.26撮影)

  周恩来は1898年、江蘇省准安県県城に生まれた。もともとは魯迅と同じ紹興の旧家であるが、没落して叔父の家(瀋陽)に預けられて育った。幼少の頃は3年間(1910−1913年)、瀋陽のこの小学校に通った。筆者が座っている教室【写真10は2階にあり、1階はすべて記念室になっている。

  周恩来は1914年、天津の南開中学校へ入り、1917年、日本に留学して日本語を学び、1919年に帰国して南開大学へ入学し、卒業後はフランスへ留学した。日本への留学中は早稲田の山吹町298番地付近に住んでいたというが、そこは筆者の出生地(山吹町198番地)の近くである。

  周恩来第一次国共合作が成立した1924年に帰国して、孫文が創建した黄埔(こうほ)軍官学校(校長は蒋介石)」の政治部主任となった。1931年、瑞金(ずいきん)に臨時政府が出来たとき、毛沢東を支えて主導権をとり、以後、中華人民共和国の建国以来、死に至るまでの27年間、総理として、毛沢東を支えた。文化大革命中にあっても毛沢東のそばで誠実に政治を行い、民衆の味方になったから、周恩来の死去に際し、追悼のうねりが第一次天安門事件4人組追放へとつながった。もし、周恩来がいなかったら、中華人民共和国は現在のような安定した国家にはなり得なかったのではないかと思う。

 

法輪寺(北塔)

  清初、1643年頃にはラマ教が盛んで、瀋陽にはラマ教の寺院・四寺四塔が東西南北に造られた。現在まで残存するのは、東塔、南塔、北塔の3寺で、その中でも北塔法輪寺が特によく保全されている。ラマ教は仏教の一派で、生者を信仰するもの、歓喜天(かんぎてん)(聖天)を本尊とするものが多い。我が国にも歓喜天があり、象頭人身像や夫天が象頭;婦天が猪頭のものがあって各地に聖天宮が現存する。浅草の真乳山(まっちやま)聖天宮は商売繁盛、無病息災、夫婦和合にご利益がある。北塔のものは秘仏で大殿内に安置される本尊で、一般には公開されていないが、案内人が特別に写真撮影を許してくれた。ただし、50元の本を買わされた。これと同じ本が、次に訪れた無垢浄光寺では30元で並んでいた。秘仏の拝観料が20元ということになる。

11:北塔法輪寺

12:東塔:筆者と比較して塔の大きさがわかる

1994.9.24撮影)

  東塔と南塔は最近いくらか整備されてきたが、筆者が訪れた頃は、まだ荒れていた。西塔は壊されて、跡形も無くなってしまった。東西南北の四つの塔は全く同じ形で建てられたとのことだ。

  他に、よく知られたラマ教寺院としては、北京に雍和宮(ようわきゅう)が見られ、北海公園には白塔がある。

 

無垢浄光舎利塔(むくじょうこうしゃりとう)

  瀋陽の北西に、1044年建設された舎利塔がある。1985年に塔が修復されたとき、貴重な文物のほかに、地宮からは仏陀の舎利子(しゃりし)(遺骨)が発見された。仏教華やかな時代の遺品である。日本にも各地に多くの舎利塔があるが、一般には瑪瑙などの小石を遺骨の代わりにおさめている。

 

13:無垢浄光舎利塔

1995.10.10撮影)

  無垢浄光舎利塔ほどすばらしい舎利塔は中国でも珍しい。地宮の4面には遼時代の貴重な壁画が残されていた。

 

太清宮

  中国では道教も盛んで、太清宮は1663年道教中龍門第8代祖師郭守真が創建した寺で、東北地方の道教の中心寺院であるとともに、全国でも本山と目される。

 

 

14:太清宮拝殿

15:参拝法1995.10.10撮影)

  道教儒教仏教とともに、中国三大宗教に数えられ、老子、荘子によって説かれている「道」教えという。日本へは仏教や儒教と共に渡来して、律令制(りつりょうせい)にも道教に関する役所が設けられたことがある。その後、安倍晴明などの陰陽師(おんみょうじ)が道術を取り込んで、吉凶を占った。【安倍晴明伝説:諏訪春雄、ちくま新書】道教の陰陽説から生まれた風水や易は、日本の都市・家屋の設計や人生相談に影響を与え、庚申信仰としても民間に定着した。

  現在では、日本道教学会が学会誌「東方宗教」を発行するなど活躍がみられる。

   

          瀋陽・撫順・本溪周辺概略図

石炭の町・撫順

  瀋陽(しんよう)から東へ40kmほどのところに石炭の町・撫順(ぶじゅん)がある。何回か訪問したが、列車でもタクシーでも、乗り合いのバスでもだいたい1時間半くらいのところである。徐效勉教授に連れられて行ったときは、瀋陽南駅前で朝7時発のバス(4元)に乗り、8時半に撫順駅に着いた。撫順は石炭の露天掘りで有名であるが、今では露天による採掘は困難で、坑道を造って採掘しているそうである。旧満州時代には南満州鉄道株式会社(通称満鉄)のドル箱で、現在でも、15億トンに近い埋蔵量の石炭があるとのことだが、良質の石炭は枯渇して今では鉄鉱石を掘っているという話もある。また、この地の石炭には琥珀(こはく)が混じって出るから、琥珀細工もみかける。

  ついでに触れておくと、瀋陽市の地下にも実は膨大な石炭があるとの話である。瀋陽に地下鉄が出来ないのは、そのせいだと言う嘘のような話も伝わってくる。実際、瀋陽市の郊外には炭坑があって、市内の暖房はこの石炭に頼っている。ただし、ここの石炭には琥珀は混じっていない。石炭を拾ってよく見ると産地が分るということを教えたくれたのは川西教授であるが、瀋陽薬科大学で使っていた石炭には琥珀が入っていないので、瀋陽市産であることが分る。

16:撫順炭坑(西露天砿)

 

採炭用の鉄道が円弧を描いて深く降りてゆく:底の方に池が見える

1996.9.21撮影)

 

平頂山(へいちょうざん)惨案遺址

  撫順市内の南方に平頂山がある。日本人にとっては慚愧に堪えない遺跡で、1932年9月16日に全村の3000人余の人々が日本軍によって惨殺されたところである。日本軍は罪状を隠匿するためにガソリンを撒いて焼却したあと、山を壊して死体を埋めたのであるが、戦後、掘り出されて800体の遺体が集中する平頂山の麓に平頂山惨案遺址記念館が造られ、その前の高地には日本人によって建てられた謝罪碑が在る。このような謝罪碑では、到底、免罪は出来まいと思われる乳飲み子を抱いた母親や妊婦と胎児の遺骨、日本刀で斬られた頭蓋骨などが散在し、涙なしには見学できない。記念館の入場料は中国人5元、外国人15元であったが、これとは別に50元を寄付金箱に入れた。箱の中にはドルや円を始め世界各国の貨幣が入っていた。

  日本が中国に残した負の遺産はいまだに残存する毒ガスを始め、残留孤児の問題など、拭いきれない傷跡が散見されるのに、日本政府の対応は歯がゆいほど鈍い。日本びいきの徐效勉教授は、初め、この地を訪問することに強く反対したが、無理に連れて行ってもらっただけのことはあった。出来るだけ多くの日本人がこの地を訪れて、少しでも謝罪の祈念を捧げ、世界の平和を祈るべきではなかろうか。

17:平頂山殉難記念碑前で(徐效勉教授と)

18:平頂山殉難同胞遺骨館(この建物全部が虐殺現状を覆うように建てられている)

 

大夥房ダム

  撫順の東郊には100kmを超える遼寧省で一番大きい人造湖がある。この人造湖は、瀋陽の郊外を流れる渾河(こんが)の上流を、長さ2kmに及ぶ堰堤でせき止めたものである。この地は、先に触れた、後金のヌルハチ(清の太祖)が撫順の明軍を撃破した古戦場【1618年のサルフの戦い】であるが、1958年、湖底に沈んだのであった。人造湖を含めて270kmに及ぶ風景区として、市民の憩いの場となっている。

19:kmに及ぶ堰堤1996.9.21撮影)

  初めてここを訪れたのは1987年であるが、撫順から車で渾河をさかのぼって来ると、突如、目の前に巨大な城壁が出現し、行く手を立ちふさがれたように思えた。観光船で北西部の元帥林張作霖【前述】の陵墓)へ行ける。ここにはレストランもあり、風光明媚なところであった。

 

本溪水洞(ほんけいすいどう)

  瀋陽から東南の方向へ70〜80km行ったところに本溪市がある。この郊外に、世界でも珍しい鍾乳洞がある。本溪水洞は3回訪れたが、初めて訪問したときは、まだ、市内の一角に旧日本軍の駐屯地跡の建造物が残っていた。この鍾乳洞は旧日本軍が弾薬などの貯蔵庫として使ったところで、今でも弾薬などが残っているとの話である。今では、瀋陽から立派な高速道路が丹東まで続いて、途中、桃仙国際空港を右手に見て、本溪出口まで72kmの標識がある。高速道路が出来るまでは水洞まで1日では行けないといわれていた。世界一の鍾乳洞と称されるアメリカのキャルスバッドは規模の上では雄大であるけれども、その景観は本溪とは全く趣を異にするものである。本溪には、ものすごく長大な湖が地底にあり、舟の中から、水中からそそり立った、あるいは下垂する鍾乳石群を堪能することが出来るところに、中国随一と言われる所以がある。   

20:本溪水洞入り口

     【2005.10.22撮影】

21:船乗り場入り口にある巨大な石筍

1995.10.11撮影】

 

22:今も成長中で水がしたたる

23:未だに水洞の全部が明らかになっていなくて、年々見学できる洞窟が増えるそうだ

 

初めて見学したときは鍾乳石で頭を打ってコブができた

1995.10.11撮影】

  水洞入り口から右方向へ進んだ洞窟には水がなくて、そこは古代人の住居跡であったらしい。古代人の人形や恐竜の模型が並べられていて子供達にはよい見学場所となっているが、真髄は水洞にある。「世界遺産に登録させよう」との話もあるが、断っているそうだ。自由に見学することが出来なくなるからという。初めて見学したとき、入場券を扱っているお土産店で、水洞石で作られているという観音像を母の土産に15元で買ったが、どうやら、水洞石ではなくて玉製のようだ。近くに優良な玉も産出する。  

  玉と言えば中国の特産品の一つであるが、唐の玄宗皇帝の貴妃であった世界の三大美女と謳われる「楊貴妃」は、1250年も昔(756年)、安禄山の変に際して高力士に絞殺されたということであるが、実は密かに助け出されて、我が国へ落ち延びたとの話もある。当時は、阿倍仲麻呂玄宗の側近であったから、可能性がある上に、中国には馬嵬坡(ばかいは)に楊貴妃の衣冠墓があるのみである。我が国にこそ楊貴妃の墓が現存することは、あまり知られてはいないが、その地の油谷(山口県長門市)ではふるさと創成一億円を投じて、「漢の白玉」製の楊貴妃像を建立している。

24:1億円の漢白玉製楊貴妃像(二尊院:玄宗が陳安将軍を遣わして贈ったという釈迦と阿弥陀の尊像を宝物館に保存)

25:楊貴妃墓(十三重の宝塔:玄宗が贈った)寺住もなく、訪れる人もいない静かな墓地

2007.8.3撮影】

 

結婚式

  ここで、漢民族の一般的な結婚式を紹介しよう。大学の招待所では、時々行われていたが、実際に招待者として参加することはなかった。たまたま、瀋陽山之内製薬株式会社(現瀋陽アステラス製薬株式会社)にお勤めの方が結婚されるとのことで、後学の為、郭さんに連れられて出かけた。結婚式は、瀋遼中路9号にある「梅子酒楼」という会社の近くにある食堂で、朝10時から行われた。

  はじめにドラを主にした音楽、ついで結婚行進曲で日本と全く同じメロディー(勿論、テープ)で、新郎新婦は階下から二階の式場へ上ってくる。二人が席に着くと、司会者の挨拶があって、会社の副総経理(副社長;瀋陽薬科大学の出身者)が立会人というところか、結婚証明書を朗読する。

26: 腕時計をつけ終わると新郎は新婦に最敬礼を繰り返す

時計を頂いたお礼だそうだが、新婦は軽く会釈するだけ

27:腕をややこしく絡ませて乾杯をする(介添えは男の子と女の子)

 

1996.9.28撮影)

  続いて、新郎が新婦に指輪を贈った後、こんどは新婦が新郎の腕に時計をはめる。これが日本での指輪の交換にあたるのであろうか、中国では一般的な儀式とのことだ。これが済むと新郎は新婦に最敬礼(90°に腰を曲げる)を繰り返し、新婦の方は軽く会釈する【写真26。時計を戴いたお礼だそうだ。それから、二人で大変ややこしく腕を絡み合わせて、乾杯をする【写真27。これが三三九度にあたるようだ。

  二人が乾杯を終えると、日本側代表の挨拶があり、記念品が贈呈される。何が入っているのか聞きそびれた。新郎が簡単な挨拶をして、式が済むと、披露宴となり、ご馳走が運ばれ、各種の酒が並び豪華である。各テーブルには、あらかじめ、白酎(ぱいちゅう)(結婚式で用いるものは決まった銘柄とのこと)1本とビール2ダースが置かれているが、到底足りないようだ。皆、よく酒を飲むが、飲めない御仁もおられる。筆者の前にいた赤い服の男は、浴びるようにビールを飲んだが、その